日本を走る(Web版) 自転車・登山等の記録
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第1部 プロローグ
二十歳の夏、「何か二十歳の記念になることをやろう」と考えた。自転車による日本縦断、更に日本一周は、前年、北海道の東半分・1000kmを走破したときからの目標であった。しかし、山岳部の2週間にわたる笠ケ岳〜剣岳縦走で、既に夏休みは1/3が過ぎ、財政的にも、体調的にもやや厳しかった。手元の軍資金はわずかに5万円余。時間的にみても途中アルバイトなどで資金を調達することは不可能である。親には秘密の旅ゆえ頼るあてもない。そこで、超緊縮財政を達成するため、いくつかの誓いをたてた。それは、1.畳の上には寝ない(総てテントによる野宿を通す)、2.飲食店・レストランを利用しない(総て自炊で通す・但し駅の売店やスーパーでの買い食いは別)、3.路上の自販機の缶ジュース・缶コーヒーの類いは飲まない(飲み物はボトルの水+びん牛乳のみ)、4.たとえ1円であろうと総ての出費と総計をその都度記録する。
荷物は一人用テント、寝袋、携帯用ガスコンロ+予備カートリッジ、携帯用アルミ鍋(通称コッヘル)、小型ラジオ、Tシャツ×2、パンツ×2、タオル×2、靴下×2、ヘッドランプ、乾電池、どこかで拾った工事用プラスチック製ヘルメット、医薬品、自転車修理用工具、小型カメラなど合計10kg強。これに分解した愛車・キャンピング仕様に改造したシルク・ランドナー「エスプリ(仏語で”精神”の意)1号」15kg程度を加えた合計25kgを肩にかけ、電車で敦賀港へと向かった。当時、北海道へ渡る最も安上がりなルートがこの敦賀−小樽フェリーで、学割・2等・4240円と東京−室蘭ルートの半額であった。
敦賀港での見送りは、海風と夜の闇だけ。何となくセンチメンタルになる。山国育ちの自分でも汽笛の音を聞くと、何故か故
郷のことが瞼に浮かんでくるから不思議なものだ。 2日目は一日船の上、倹約のため持ち込んだカップヌードルで3食を摂り、あとは二等船室に横になって、ひたすら地図上で明日からのコース選定を行なう。その他には何もすることがない。
3日目は夜明けとともにとても早く目が醒める。下宿生活では考えられない時刻だ。海猫か、カモメか、海鳥が船のまわりに何羽も飛ぶようになったとき、小樽が見えた。質素で、美しい街。多くの人がこの街を愛したという。25kgの手荷物と一緒に小樽から札幌へ各駅で、そこからは急行「天北(この美しい名前の列車はもう走っていない)」で日本最北端を目指したこの頃は金もなく「特急」に乗るなどということは考えも及ばなかったし、けっこう便利な急行が沢山走っていたのだ(背もたれが直角で、総向かい合わせ座席。これが正しい学生の列車旅行であった。)。旭川あたりで行商の小母ちゃんが自転車の上にどっかり腰掛けてしまい、自転車がへしゃげないかとてもあせったが、事なきを得た。
車中私が前年走ったコース(稚内から東回り)を走ろうというソロのサイクリストと出会い、意気投合した。彼の本業はハングライダー、こちらは冬山も登る山屋。お互い「よくそんな危ないものをやるもんだ!」とあきれてしまった。
音威子府(おといねっぷ)駅で稚内へ向かう彼と別れ、いよいよ今回の出発点、天北線(既に廃線)・鬼志別(おにしべつ)駅へ降り立った。
第2部 北海道の大地を走る。
列車の遅れ、自転車の組み立てなどで、旅立ちの時刻は18:45、北海道は東にあるため、夏ではあるがお天道様(太陽)は地平線に近い。駅員さんもいないようなひなびた駅が今回の自転車旅行の始まりである。奮い立つ心を抑えつつ、自転車を組み立て、最初のひと踏み、、、、あれ!!!何とポッポンプがない。下宿に置いてきたらしい。ここから宗谷岬を経て稚内
までの50kmの道程はほとんどが原野のなかを走るコースであり、自転車屋はもちろん普通の店も点々としかない。パンクの際にポンプは絶対必需品である。もしパンクをしたら、あとは稚内まで押して行くしかない。何十キロも。早くもハンデを負って気も動転。頭が空回りしてさらなるミス! 今度はルートを180度間違ってしまった。気が付いたときには北海道のどこまでも続くような地平線にお天道様が沈んで行くところであった。「しまった」と思ったが、この頃にはもう悔しさや不安感はなく、むしろただひたすらに美しい大平原の茜色の大空に見入ってしまっていた。これに見合うだけの美しい夕暮れは、北アルプスの雲の平で一度経験しただけである。そこは何と自衛隊の演習場であり、やっとの思いで国道に入ることが出来、暗い夜道を今晩の幕営予定地・宗谷岬に向かって走る。途中テントを張れそうな所はいくらでもあったが、やはり日本縦断初日の幕営地は宗谷岬であらねばならない。
すれ違う車も人もなく、もちろん街灯もなく、左は原野、右は時折海が見えるだけの一本道をパンクに怯えながら走る。ふと気が付くと目の前には丁度、北斗七星。オホーツクの水をくむように天から差し伸べられている。そんなはずはないのだが今まで見たことのある北斗七星よりはるかに大きい。そして明るい。「それだけ北極に近いから」「いやそんな馬鹿な」自分の置かれている状況を忘れて、妙に嬉しい気持ちになる。
もう半分くらい走ったかなと思う頃、突然、前方の路側にふたつの光る物体がゆっくり動いている。思わずドキ! ペースを抑えてゆっくり近づくとそれはキタキツネの目であった。向こうも驚いた様子で、さっさと原野のなかに消えていった。1時間の間に出会った生き物はこのキツネ1頭であった。
海沿いのカーブを左に回りこむとそこは日本最北端、宗谷岬であった(午後8:55到着)。テントが既に2張ほど、もう深い眠りのなかである。この前の年、親友と北海道の東半分を回ったときにもここに幕営したが、あの晩は土地の若者(?)が突然宗谷岬で大カラオケ大会を開催。数張り張っていたテントの人間にも「出てこい!出てこい!」とさかんにシュプレヒコールを送ってきた。結局、日本最北端の売店の親爺さんらしき人に大声で怒鳴られて開散となったのだが、とても愉快な思い出である。この晩はその時とは対照的に、風と波の音しか聞こえないとても静かな夜だった。
翌朝は強い南風の吹く晴天。他の天幕に軽くあいさつをして、最北端の記念撮影を終えた後、いよいよ南下を開始する。岬特有の低潅木が密生する海岸道路をひた走り、最初の街、稚
内に着く。すぐに南稚内の自転車店でポンプ壱千円也を購入。痛い出費だが、今は壱萬円出しても欲しい品物だ。ここからはまっ平らな幕別平野を快走する・・・はずなのにちっともスピードがでない。とうとう疲れて一休みしてみて気が付いた。ものすごい南風、これが北風だったら漕がなくても進むのに、と思いつつゆっくりゆっくり南下。途中サロベツの原生花園に立ちよったが既に花の最盛期は過ぎ、広々とした原生の草木の群れ、波静かな日本海に雄々しくそびえる利尻富士の雄影が瞼に焼き付いた。幌延・天塩・遠別と続くラインは「これが北海道だ!」ともいうべき風景がつづく。視野いっぱいに広がる牧場に放牧された牛たちの群れ、ぽつりぽつりと目にはいる北の緑の樹々、大陸の大河のようにゆったりと流れゆく天塩川。お天道様(太陽)がなければ方角すらわからない。大雪山からの長い旅を終えた天塩川が日本海へと注ぐ所、鏡沼にて北海道第2夜を迎えた。
鏡沼湖畔にはキャンプ場があり、たくさんの人たちがキャンピングを楽しんでいた。自分がテントを張ったちょうど隣が8人くらいの親爺さんグループであったのだが、こちらがサイクリストと知ると「ご苦労さん。こっち
へ来て夕飯を一緒に食べよう」と誘ってくれた。本場のジンギスカン鍋と白米を腹一杯いただいた。全自炊で通しているため、手間がかからないという点から、うどんはいやというほど食べたが、手間がかかることとコッヘル(携帯鍋)を洗うのが面倒くさいということから白米は一回も炊かなかった。そのため、この時いただいたご飯は、まさに旅の中で食べた唯一と言っていい「銀シャリ」遠慮もせずしっかりおかわりもした。言葉から北海道の人でと思われたが、本当に優しい人たちだった。 北海道の日本海沿いのルートといえばすごくまっすぐで平らなイメージだが、けっこうアップダウンもあり、風が吹けば抵抗も大きい。しかし、本当に同じ様な風景が続く。まっすぐな道、急カーブは全くない。目にはい
るのは、海・牧場・原野・海・牧場・原野である。大きい集落は少なく、集落に入っても家々の間隔が広く、四角い感じの家が多かったような記憶がある。だから何となく「外地」って感じなのだ。十数年後再びこの地をトライアスリートとして訪れ、日本最長のトライアスロン(オロロンライン・トライアスロン)を戦うことになろうとはこの時は想うべくもない。遠別・初山別と過ぎると再びほとんど海岸線ルートとなり、稚内以来久しぶりの大きな街。羽幌へ着く。羽幌は小さいけれどきちんとした碁盤の目でできており、きれいな街である。羽幌川を渡り、直進するか、右折するか、散々悩んで「もう二度と来ることもないかもしれない」と天売・焼尻島へ渡る決心をした。舟に乗って、まず手前の焼尻島上陸。そこでまずテントを張り、自転車で周囲12キロほどの小さい二島を半日ずつ巡った。焼尻島ではオンコ原生林にいた黒斑でしっぽの曲がった小さいノラネコ(勝手にキッドと命名、何故か何度も何度も私の目の前に姿を現し、近づくと消えていった。)と、牧場にいた顔の黒い「サフォーク」という羊が印象的だった。その時は顔がひょうきんなので愛玩用とでも思っていたのだが、あとで肉用羊と知って少々つらかった。北海道では安かったので夜は羊の肉にたまねぎやうどんを混ぜて毎晩食べていたからだ。(もっとも私の食べていた一番安いマトンでサフォークとは随分価格差があるようだ)
天売島は鳥達の王国。西側の断崖絶壁に何羽もの海鳥(オロロン鳥、他色々)が飛びかい、人間は総て鳥たちに招かれた客人の様に小さくなっていた。しかし最近ではこのオロロン鳥が絶滅の危機にひんしていると聞く。あんなに沢山いたのに... 本当に楽しかった島巡りを終えて、羽幌に戻り、再び苫前・小平と南下してゆく。この辺りは牧場が多い。途中、初めて観光料金\150を払って、小平町で当時の日本最北端の重要文化財「鰊番屋(花田家番屋)」を見学!
その広さに圧倒された。鰊番屋を過ぎると、留萌支庁(オロロンライン)最大にして唯一の都市、留萌市にはいる。後に妻と自転車でオロロンラインを走ったときは、この街最大のビュース
ポット「黄金岬」を訪れ、その美しい風景に圧倒されたが、この当時は、国道231号線は雄冬当たりで切れてしまっており、その先は通過不能(現在は石狩河口まで道路が通じている)。黄金岬を目前にしながら、暑寒別岳が海へ崩れ落ちるように険しくなる海岸線に別れをつげ、留萌川(国鉄留萌線)沿いに東進した。ぐねぐねと登り、まさにその名の通り「峠下」というところで川とも線路とも別れ、峠を越えて石狩平野(雨竜町)へ入る。雨竜町といえば、暑寒別岳下にある、「雨竜沼湿原」が有名で、ぜひ訪れたかったが、同じ町と入ってもはるか遠くであり、1日のロスになるため、泣く泣く割愛した。その名の通り、雨の降り始める中、脇を流れていた雨竜川は石狩川合流し、その石狩川岸に拡がる滝川公園に幕営した。幕営地には誰もおらず、初めて独りの夜だ。本当に静かで、広々とした緑の木々のなかに一人いると、何かこのまま吸い込まれていってしまうような幻覚に襲われる。でも次の朝はしっかりと雨音で目がさめた。
石狩川の対岸の国道12号線は併走する函館本線とともに砂川美唄間27km程度がまったくカーブせず一直線に走る「直線道路」であり、サイクリストの間では一度は走ってみたい道の一つとなっていたが、交通量と悪天候を考え、札沼線と併走する国道275号線を南下した。黒いポンチョで始めて本格的な雨中走となる。夏場はセパレートの雨具より、ポンチョの方が手足が自由で走りやすい。しかし逆に手足はかなり濡れ、時には体温を奪う。雨の中ながら快適な走行だったが、途中、自転車が突然停止し、こけそうになった。自転車をチェックすると、なんと後輪のスポークが折れてフレームに挟まっている! 予備のスポークがないのでそのままペンチで折り曲げて別のスポークに引っかけ応急処置をしたが、不安は隠しきれない。後部に付けた荷物10kgと80kgを越える体重が「エスプリ1号」を痛めている。名峰大雪山に源を発する雄大な石狩川にそって、河口にむかって田園地帯を走る。小学校の頃、本でみた「
三日月湖」の近くを走る。記憶に残る本の写真と風景がオーバーラップして、何故かとてもなつかしく感じてしまう。
当別で左折すれば北都、札幌であるが、混雑が予想されるためこれを避け、河口近くで石狩川を渡河した。河口辺りでは
、三日月湖の規模が大きく、河のようなものを数回渡るが道標が無ければどれも石狩川のようである。「銭函」という浪速商人が泣いて喜びそうなところで石狩平野は終わり、一日ぶりに左に山の迫る日本海沿いの道に戻り、小樽をめざす。今回の旅の始まりの街、雨の小樽もただ通過した。小樽はこれで合計3度目の通過であったが、小樽を観光したのはその後18年の後である(岡谷病院の職員旅行)。小樽の街の印象といえば、街の一番の大きな交差点で交通整理をしていた白い雨合羽の婦警さんがとてもとてもきれいな人だったことだけ覚えている。「ピリピリ」という警笛がフルートのように聞こえた。
途中、忍路環状列石というストーン・サークルに寄り道した後、蘭島という海水浴場にテントを張る。ここで久しぶりに銭湯に入り汗を流す。タオルに隠してシャツやパンツを持ち込み、体を洗うふりをして、番台に見つからないよう、石鹸でコソコソ洗う。しっかり絞って持ち帰り、テントの中に干した。こういう時のため、洗濯ばさみはちゃんと4個携帯している。この晩は北風が強かったが、本当に泥のように眠った。朝起きると、塩水を含んだ海風にやられて、ギアの動きがぎこちない。急いでオイルをさ
すが、海岸に自転車をおいてはいけないという教訓をえた。雨の上がった小樽からの海岸線は、荒々しくてとても美しい。余市からはトンネルもいくつかくぐる。(後年、大落盤事故のあったところだが私が旅行した頃はおそらく古いトンネルだったと思われ、道が狭くて車に引っかけられそうでとても怖かった。)奇岩を楽しみながら、積丹町の役場のある集落へ。ここから積丹岬の突端を目指すオプションもあったが、峠を越えて再び海岸ルートに出、余別に着く。今はここから先も10本以上のトンネルで岩内まで国道が通っているが、当時はここから先は自転車では通れなかったため、明朝まで岩内までの舟を待つ。ブラブラしていると家族連れに声をかけられる。「お兄ちゃん。私ら今日で旅は終わりだからもう食べ物はいらんのよ。よかったらこれ食べて。」と缶詰やらレトルト食品やらを山ほど渡される。自宅へ持っていったって使えるものばかりだ。別にここで処分するようなものではない。「貧乏旅行と知って、恵んでくれたんだなあ。」人の情けにふれ、とても嬉しかった。そして北海道が、道産子が今まで以上に好きになった(少し現金かな)。
舟に乗ると、断崖絶壁の続く険しい海岸線が今度は海の方から眺められる。海へ直接流れ込む滝や、海から生えてきたような奇岩の数々、しばし観光を楽しむ。自転車を必死にこいでいる時は、いくら美
しい光景でも、見とれたり、立ち止まったりはできない。一瞬一瞬が鮮やかに網膜に焼き付き、そして瞬時のうちに消え去ってゆく。心に残る風景は記憶と幻影の混じり合ったものである。それは走馬燈のようでもあり、幻覚のようでもある。だから後になって走っているときの風景を思い出そうと思っても、あまり鮮やかには浮かんでこない。はっきりと浮かんでくるのは皆、立ち止まって眺めた風景ばかりである。
疲れが十分とれた頃、船は岩内港へ着いた。ここでスポークを買い交換(お金はなかったが予備も2本購入した。)。日没迫る海岸線を雷電海岸の天幕場へ。天幕場は少し小高いところにあり、左右の荒々しい海岸線がよく見渡せる。既に数張りのテントの先客があり、鏡沼以来単独の幕営が多くて寂しかったので、その近くに幕営した。夕食のうどんを食べる頃には天幕場では花火が始まった。打ち上げ花火がなかなかうまく上げられないようなので、手伝って一緒に花火をあげた。そこで高校生と中学生の高橋姉弟と仲良くなった。彼らは両親と一緒に帯広から家族旅行の最中。こちらは人とゆっくり話すのは久しぶりであったため、とても嬉しくなって、山のこ
と、彼女の進路のこと、色々と話しをした。気が付いた頃には、もう夜も深く、目の前の水平線に何艚ものいか釣り船のともす明かりが並び、とても幻想的な光景であった。山影から陽の光が射しはじめる頃、隣りが目覚める前に天幕をたたみ、再び一人旅を始める。本当はみんなで一緒に朝飯でも食べて、「それじゃあ、また」と、さよならしたいのだが、そうやって別れるのはもっとつらい。やはり
今は黙して行かん。一人旅をしているとすぐ友達ができる。そうした出会いはとてもとても楽しいものだが、すぐ後に辛い別れが待っている。「もう二度とあうことはない」 そう知りつつ、また友達を作ろうとする。変なものだ。(でもこのあとずっと、毎年初夏になると高橋家からは鈴蘭の花束が帯広から下宿へ届けられたのです。)
作開というところで、このまま日本海沿いに南下するルートと別れ、峠を越え、黒松内の手前で函館本線とも一緒になり、渡島半島の付け根を切るような形で内浦湾(噴火湾)のど真ん中、長万部町へ出た。噴火湾沿いのほとんどまっすぐの道を快走する。重装備ではめずらしい時速30km近いペースで走り、いか飯で有名な「森」に着く。ここからは日本百名山の駒ケ岳を左に眺めながら走る。爆発で山腹が吹き飛ばされているため、進むごとに山の形が変わり面白かった。大沼小沼で休憩したとき、山腹の登山道が見え、無性に登りたくなったが、急ぎ旅のこと、「あそこにはひぐまがいっぱいいるぞ」と自分にいいきかせ、登りたい気持ちをなんとか抑えた。
函館までは下り道でスイスイ走った。途中、変速なしの家庭用自転車にリュックサックを縛り付け、超スローペースで南下する
若者に会う。あっという間に追い抜いてしまったので、彼がいったい何処からきて、何処へ行くのかはわからなかった。「何て無駄な事をするんだろう」と思ったが、それをいやあ自分こそが「無駄な事」に時間を費やしている馬鹿ものなのだ。函館では五稜郭を見学。榎本や土方の夢も緑の樹々の中。ボーイスカウトの勇ましい声が響きわたっていた。
(夜景が美しい)函館山に登りたい気持ちを抑えて、今日のねぐらをめざして再びペダルを踏む。(バター飴で有名な)トラピスト修道院の膝元にある海岸端
の三ツ石テント場に幕営。今日はペースよく203km走った。函館湾を隔てて眺められる函館の夜景が疲れを癒してくれる。近くでは高校生の1クラスぐらいの集団がキャンプファイアーを行っていた。道産子はとてもひとなつこく、ここでも高校生たちが気軽に向こうから声をかけてきて、あれやこれやと話しが弾む。今日も羊肉と玉ねぎ入りの豪勢なチンギスカンうどんを食べて夢の中。
翌朝は北海道最後のラン。海峡沿いの道をゆき、福島峠を越えると福島町、今では「千代の富士」の故郷として有名だが当時はただの田舎町。11:30のフェリーを待つ間、北海道最南端の白神岬をピストン(往復)する。これで北海道の縦断は完了した。縦断達成の喜びよりも、楽しかった北海道との別れがつらかった。青函連絡船とは比べものにならないような小さな舟(船賃はわずか500円!)に乗り込み、掘削中の青函トンネルの上を一路、三厩(みんまや)港へ。舟の上、青空の下で早速、両親・下宿のおばちゃんたちと、昨日別れた高橋一家などへ手紙を書く。
完了した。縦断達成の喜びよりも、楽しかった北海道との別れがつらかった。青函連絡船
とは比べものにならないような小さな舟(船賃はわずか500円!)に乗り込み、掘削中の青函トンネルの上を一路、三厩(みんまや)港へ。舟の上、青空の下で早速、両親・下宿のおばちゃんたちと、昨日別れた高橋一家などへ手紙を書く。
第3部 みちのくの旅はあまりに短く
2時間の船旅の後で、三厩港へ入港(本州島上陸)。ここから津軽半島最北端の竜飛(たっぴ)崎を目指すか、先を急ぐか悩んだが、今日中に峠越えをまだ2つ控えていることもあり、泣く泣く南下を選んだ。今別の街中の自転車やさんで折れたスポークを修理。これに1時間半と1000円の支出を費やし、峠道にかかったのは4時。津軽なかやまライン(小国峠)・津軽やまなみライン(七平峠)の比較的上りやすい峠を越え、七平峠の下りにはいると今日の宿泊予定地、十三湖が目の前にみえた。夕暮れの十三湖を巡って白鳥飛来地の近くのテント場についたのは黄昏も深まった午後7時だった。これから飯飯とテントを張ったところで天使のささやきなんと、となりで宴をはっていた中年のおいちゃん達が「ご苦労さん!
こっちでいっしょに焼き肉食べんか?(津軽弁だったとは思うが...)」と誘ってくれたのだ。「そんな、申し訳ない」と言ってはみたものの、気が付いたら宴の真ん中にすっかり入り込んで牛肉をつついていた。ビールも少しいただいて極楽気分・高イビキの夜となった。
翌日は、朝焼
けの美しい中を5:25に出発すると、十三湖と日本海の間の狭くなったところを南下。湖沼の点在する平らなコースを進んだ。司馬遼太郎によれば、石器時代にはこのあたりは日本で最も住み心地の良いまほろばであったという。それも何となくわかるような穏やかな風景のなかをのんびりと走った。正面には、津軽人の心のシンボル岩木山が両手を広げるように鎮座していた。今回どうしても立ち寄ろうと考えていた「亀ケ岡考古館」にはなんと6:55に到着してしまった。開館
までは2時間もある。この時間を利用して町中を散策した。土地の人と話をしたがこちらが旅の人間だと知るとこちらのわかる言葉で話してくれたが、土地の人同士、とりわけておばあちゃん同士の会話となるととなりで聞いていても、まったくわからない。どれくらいわからないかというと、どこでどう語句や文節が切れているのかもまったくわからないのだ。そんな体験をしている間に開館時間が近づいた。受付のおじさんが待っているのに気が付いて15分も早く入館させてくれた。津軽の人たちもとても優しい。「亀ケ岡考古館」は集めた思いのほか小さなコンクリート造りの建物で、中にはかの有名な亀ケ岡式土器(壺型・鉢形など美しい形のものが多い)などが所狭しと並べられていた。なかでも目を引いたのが、宇宙服を着たような異様な土偶。これは作者の想像の産物なのか?
それともこのような宇宙人を目撃したのだろうか? 長い旅の合間に少し空想を楽しんでしまった。それにしても入場料がたった百円で、二百円はする二色刷の綺麗なパンフレットをくれたのには驚いた。
考古館をあとにして、今日中に秋田県に入るべく、先を急いだ。本州上陸後は一日一県を目標に頑張った。鰺ケ沢からは、左は(後に世界遺産になる)白神山地に連なる原生林の山々、右には美しい海岸線を眺めて走るすばらしいコースである。しかし何しろこの日もとても熱く、食費の半分がアイスクリームとコーヒー牛乳などに化けた。さらに山が海に迫っているためアップダウンが予想したよりも多く苦労した。海辺で遊ぶ人々が、とっても涼しげで、楽しそうに見えた。「何で俺は、普通の夏
休みを送ろうとしないのだろうか? ごく普通のことを何故楽しいと感じられず、そして満足できず、しんどい方、しんどい方へと突っ走ってしまうのか。そういえばいまだに彼女はひとりもいないし、デートや合コンも一回もしてないなあ」
そう思いつつも、決して足を止めることなく、南への旅は続いた。
五能線「十二湖駅」というところで日本キャニオンという名前を目にし、立ち寄りたかったが、先を急ぎ、5PMに予定通り秋田県に入った。この日は、能代海岸にテントを張った。キャンパーは減り、まわりは盆踊りで賑わっていた。
能代周辺からは秋田平野の平坦な道が続き、体力的には楽なはずなのだが、何せ今は盛夏。ともかく暑い。暑い。昼間は走る意欲がそがれる。(この十四年後の寒い夏、能代を流れる米代川の50キロほど上流で開催された「北欧の森トライアスロン」で鼻や耳の穴の中まで泥まみれになり、寒さにふるえながらマウンテンバイクを駆ろうとは、まさに皮肉な話である。)
この日食べたものは、200円のビスケットと、160円のソーセージだけで、あとの670円はすべて牛乳やアイスクリームに消えた。暑すぎて、パンやご飯がのどを通らないのだ。
八郎潟の手前で、男鹿半島(入道崎・寒風山)への道を右に分けた。心残りではあったが先を急がざるを得ない。やっと寒風山に登ることができたのは
この十五年後である。八郎潟は全景を望めず、その大きさを感じることはできなかった。八郎潟干拓地の中のまっすぐな道を走ってみたかった。しかし意外にも干拓地との間は調整池なる水路で隔てられており、干拓地へわたる橋も少ないため渡るチャンスを逸した。
秋田市内ではバイパスを通らず、遠回りしてわざわざ国鉄秋田駅に立ち寄った。駅を利用したかったからだ。駅の広い手洗い場でタオルをぬらして体中を拭き、冷やした。頭や足も洗った。そして駅の涼しい待合室でアイスクリームを食べながら30分ほど休んだ。体力が
みなぎってきて、「いざゆかん」と走り出したら5分でパンクした。炎天下であれこれ修理している間に、体は再び汗にまみれ、40分も経過してしまった。しかしその後は快走。海岸線に沿ってほぼまっすぐに南下してゆく平坦な酒田街道をどんどん走った。
本荘の駅では、予定外に待合室で2時間近くも昼寝をしてしまった。この十五年後、すぐ近くの矢島町から鳥海山を目指して登るきつい「Mt.鳥海バイシクルクラシック」を走ることになるのだ。しかしこの時は走りながら、時々眺められる鳥海山は何となくなだらかな山に見えていたのだ。
本荘市では郵便局で様々な人へ向けて手紙を投函。名勝「
象潟」に着いたのはもう夕方だった。鉗満寺の庭から見える風景は、田んぼを海に見立て、その中に点在する松の生えた小山を島に見立てるとまさに「松島」の風景であった。「松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとし」と芭蕉が詠んだ絶景がしのばれた。表日本の松島は名勝として残り、裏日本の象潟は海が干上がってその名を知る者はあまり多くはない。山形県にはいるとすぐに十六
羅漢岩を見学。吹浦海岸の天幕場に着いたときはちょうど日本海に夕陽が沈むところだった。美しい夕焼けにしばし見入っているとあっという間に漆黒の闇がおそってきた。今晩はうどんにソーセージを入れて一気にかき込んだ。野菜不足と連日の暑さに少しまいってきているが一日150kmのペースは何とか守っている。
翌日は本間美術館の開館時刻に合わせて遅く起き、美術館は1時間近くをかけてゆっくり見学した(入場料200円+パンフレッ
ト10円)。美しい鶴舞園と美術館所蔵品の豪華さには感激した。至る所に「酒田市大火復興記念・昭和54年」の表示があり、当時は3年前の大火の復興がやっとなされた喜びに満ちていた。この日も特に暑く、4本のアイスクリームと6本の牛乳が胃袋に流し込まれた。鶴岡市を過ぎると山が海にぐっと迫り、狭い平地に海岸と国道と国鉄が南に向かって併走していた。
温海温泉は与謝野晶子が「さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して売るはおほむね女」と説明的に歌った、朝市で有名な温泉であるが、通過したのは暑い暑い午後の2時頃、明朝まで待つわけにゆかない。朝市はパスし、少し休んで先を急いだ。30分も走らない内に、みちのくと北陸の境、義経ゆかりの念珠ヶ関(鼠ヶ関)に着いた。弁天島を望むとても美しい浜であったが、テントを張るにはまだ陽は高く、更に南下した。鼠ヶ関で短い陸奥の旅は終わり、新潟県岩船郡山北町へ入った。この県境は随分北に偏っており、北緯38度3分は、山形市、仙台市よりも北にある。越後の国はとても北に長いのである。
第4部 灼熱の北陸路を行く
勝木で国道7号線を分けると、村上市までの海岸線は青く澄みわたる海と白い砂浜を仕切るようにいくつもの奇岩(眼鏡岩、びょうぶ岩、ニタリ岩、恐竜岩、蓬莱山等)が屹立し、その上には青松が自生するといったとても変化に富んだ景勝が続く。昭和2年に国の名勝天然記念物に指定された「笹川流れ」である。岩の間を盛り上がるように流れる潮流を、中心地笹
川集落の名にちなんで付けられたといわれる。遊覧船もあるらしく、ゆっくり眺めたいところだが、陽は徐々に傾き、我が尻を叩き続ける。
名峰朝日岳に源を発する清流三面川を渡ると、賑やかな瀬波温泉郷。ここを通り過ぎてとても静かな塩谷海水浴場(瀬波海水浴場などに比べるとそれらしき施設はほんんどなく、土地の人のための海水浴場という感じがした)に7:10pm到着した。テントを張って夕食(インスタントラーメン+ソーセージ+バナナ、自分なりに栄養バランスをとったつもり)を作って食べた。テントに入って寝ようとしたが、とても暑くて寝られない。空を見上げれば降り注ぐような満天の星。雨に降られる心配はまずない。干潮か満潮かわからず、潮が満ちてきたら流される心配も少ししたが、砂浜にシュラフをおき、そこにもぐり込んで満天の星を眺めながら寝た。疲れているせいかすぐ眠りについた。
起こしてくれたのは(野良?)柴犬だった。顔を舐めてくれたかどうかは不明だが、起きたら目の前にとても優しい犬の顔があった。すぐにとても可愛い土地の子供達が3人遊びに来た。夏休みも後半。もう真っ黒に焼けている。「北海道から来て九州まで行く」って言ったらずいぶん驚いてくれた。もう少し子供達と話をしていたかったが、暑くなるまでに距離を稼がねばならない。皆で記念撮影をして先を急いだ。
塩谷海水浴場を7時50分に発ち、今日も暑くて長くて平らな新潟県を南下して行く。右岸には時折、海水浴場が開ける。10:05に阿賀野川を渡河。河口近くなのでさすがにとても広い。ほどなく国鉄新潟駅に到着。ここは父が青春時代(大学→新潟港検疫所)を過ごした街だ。魚屋の2階に下宿をしていたため、毎日スルメイカとスケソウダラを食べていたと聞いている。この日はちょうど終戦記念日だったが、この日に戦争が終わっていなければ、おそらくB29はこの大きな街にも原爆を投下していたのである。そう考えるととても恐ろしい。私もこの世に存在していなかったかもしれない。
昭和39年新潟地震でも落ちなかった万代橋を通って信濃川を渡河する。この川の源はわが信
州の川上村、甲武信岳のふもとの小さなせせらぎである。余裕があれば新潟港から佐渡へ渡り、佐渡ケ島を一周する計画であったが、バイトの日に間に合うように中間地点の敦賀に着かねばならず断念した。(佐渡を自転車で走るのはこの十年後、'89.トライアスロン・ジャパン・オープン・イン
佐渡大会まで待たなければならない。)
この後、海岸線をずっと行くつもりであったが、道を間違えて巻町→吉田町の方に入ってしまった。吉田町あたりでスーパーマーケットに入り、昼飯の種を選んでいると、突然、スーパーの大きな袋を抱えた40代くらいのおばちゃんがあらわれ、「兄ちゃん、旅の人でしょう。私の息子は東京の大学に行っているんだけど、きっとあっちで色々な人の世話になっていると思うんだよね。兄ちゃん見てると他人と思えんのよ。良かったらこれ食べて。」と袋いっぱいの沢山の食料を渡された。何度も何度もお礼をしていただいた。本当に嬉しかった。この日以降、新潟の人というだけで親近感を感じるようになった。吉田駅でしっかり腹に入れ、残りをザックに入れ、信仰の山、弥彦山を右に見て走る。新信濃川を渡河し、しばらく116号線を走ったが、良寛さんの里にたち寄りたくなり、右折して、細い道を海の方へ走っていくと途中から自転車を押すような山道に変わり、突然前方が明るくなったと思ったらそこに出雲崎の海が見えた。そこは良寛堂のすぐ近くであった。
その後は海水浴場の続く海岸線を南下。信州人もよく訪れる有名な鯨波海岸の南にある青海川のキャンプ場でテントを張った。右に鴎ケ鼻を望む美しい海水浴場であるが、勿論、もう陽は落ちており泳ぐことはできなかった。翌日も晴れ。早起きして涼しい内に距離を稼ぎたいところであるが、連日の猛暑で疲れがたまっており、この日も朝の出発は8:10と遅くなってしまった。しばらくは、米山が海に迫るきれいな海岸線を走り、柿崎から直江津は再び平凡な道となった。今度の日本縦断の旅のなかでは、このあたりが一番、母国信州に近いところである。
直江津を過ぎ、上杉謙信の居城春日山のふもとを走り、谷浜・能生といった有名な海水浴場を右に見ながら糸魚川にたどり着いた。糸魚川駅では、ヤクルト4本、オレンジ果汁500ccを一気に飲み干して1時間休んだ。気合いを入れて白馬大雪渓から流れ落ちてくる清流姫川を渡り、難所「親不知」を超えた。もっとすごい峠と海岸線を期待していたのだが、トンネルとなっており、親不知子不知といわれた海岸線は窓のような所からチラチラ見えただけであった。ともあれ今回北海道に次いで走行距離の長い新潟縦断を終え、3時、富山県に入った。
「山男」としては鷲羽岳に源流を発し、剣岳や鹿島槍・白馬岳などの名峰からの雨水を集めて流れる黒部川の河口をどうしても見たくなり、入善町からは8号線を離れてできるだけ海岸線の道をとることとした。そのためかなり細い径に入ってしまうことになり、それがこの旅唯一の交通事故につながる結果になってしまったのだ。入善駅を過ぎて十分も走ったところで突然、「ゆ」の文字と長い煙突。「銭湯」だ! これまで風呂は幕営地近くで入ることが多かったのだが、このところ幕営地近くに銭湯がなく、「ゆ」に飢えていた私は開店早々の銭湯に入ってしまった。これも後のことを考えると悪魔の誘いだったといえる。
1時間もゆっくり風呂に入り、(もちろんTシャツもパンツもしっかり洗濯し、)再び走り出したのは5:40pm。田んぼの中の細い道を少しぼうっとしながらのんびり走っていた。少し涼しくなった風が湯上がりの体に心地よかった。
右側を白いセダンが追い抜いていった。白いセダンは田んぼの中の道をゆっくり走りながら左折マークを出して、曲がるような素振りを見せた。直後を走っていた私は、当然数秒後には目の前からセダンが消えるものと考えてあまりスピードを落とさずに直進した。ところがセダンはその直後左折すると思われたポイントを通り過ぎて途端に急停車した。私はハンドルを右に切って追突を回避したが、左のハンドルで新品のセダンの右のボディに2m近くにわたってくっきりと擦り傷をつけてしまった。気の弱そうな運転手は「これ新車なんだよな…」とひどく落ち込んでしまった。こっちも風呂上がりでボーっとセダンの直後を運転していたことは確かだし、責任はある。何とかしたいのだが、でも元々貧乏旅行でお金はない。「いくらあります?」ときかれて、財布を見ると6万円。「どこまで行くの?」「鹿児島まで……」
「じゃあ5千円だけ貰えます?」 「はい5千円でいいですか?」 こっちも5千円の出費は痛かったけど、運転手はもっと悲しかったと思う。最初で最後の交通事故であった。
このあおりを食って、夕飯はパンと牛乳で簡単に済ませ石田浜にキャンプした。翌朝は前日の事故の影響か、大寝坊をしてしまい、スタートしたのがなんと陽も高
い11:20am。予定していた魚津水族館見学もあきらめ、駅でスタンプだけを押して先を急いだ。12:30、名峰剣岳から流れてくる早月川を渡る。常願寺川を渡って13:50富山駅へ。前の年の5月、山岳部の新人合宿で剣沢でしごかれ、「下山したらやめてやる」と決心していたが、この富山駅裏の店で、先輩からうまい刺身をおごってもらってやめそびれてしまった。そんなことを少し思い出した。
神通川を渡って国道8号線に戻った。悪いときには悪いことが重なるものである。国道8号線に戻って走り出した直後に愛車のスポークが折れ、自己修理不能となり修理代3500円が飛んでいった。連日の多額の出費である。ともあれ近くに自転車屋さんがあったためタイム・ロスはわずかで済み、4時過ぎには高岡駅へ。ここでなぜかポテトチップが食べたくなり、バリバリと一袋食べ尽くして牛乳一本で胃袋へ流し込んだ。ここで右へゆけば能登半島一周400km(=2〜3日間)が加算され、左へゆけば金沢へショートカットとなる。2日に続くアクシデントで弱気になっている私は左の道を選んだ。能登半周を一周するのはこれより十年も後のツール・ド・能登400のこととなる。
夕暮れ迫る中を小矢部川沿いにゆっくりと走り、小矢部市からは峠の登りに入ったが、800年前に木曽義仲が火牛で平維盛を撃破した、かの「倶利伽羅(くりから)峠≒急坂」というイメージとは程遠く、峠はトンネルで軽く越えてしまい、拍子抜けした。後で知ったことだが古戦場はここよりもっと南の山の中だった。峠を越えると1時間で金沢駅(7:05)に到着した。駅の近くで夕飯のための買い出しをしてテント場を探したが町中ゆえ、なかなか適当なところが無くさまよった末に9:00、犀川の河原にテントを張った。
やや疲れ気味で翌朝も寝坊して、朝の8時に目を覚ました。テントの口を開けるとそこには髷を結い、浴衣を着た巨体が2つそびえ立ち、こちらを見下ろしていた。いったい何が起こっているのだろうか? テントの外の髷を結い、浴衣を着た2つの巨体はなんと大相撲の力士であった。話をしてみると名古屋場所のあとの北陸巡業中で金沢へ来ており、今は朝のお散歩中とのことであった。ここが蔵前(当時は国技館は両国でなく蔵前にあった)ならばまだしも、まさか犀川河畔で力士に会うとは思わなかった。医者になって東京の榊原記念病院に勤めてからは、横綱審議委員長の上田名誉院長(当時)の縁から、寺尾関をはじめ様々な力士の主治医となり、力士の巨大さにも慣れたが、この時は生(ナマ)の力士を見るのは初めてで、ともかくその大きさに感激した。横幅だけでなく、身の丈も大変大きいのだ。
兼六園等市内にも見たいところは沢山あったが、翌日から連続してアルバイト(病院看護助手の夜勤)が入っているため、今日中に国鉄敦賀駅に着かねばならない。ともかく先を急いだ。8号線に入って、相変わらず暑い暑い道を松任市・小松市へ。小松では暑さに耐えかね、駅に入って牛乳やアイスクリームを流し込んだ。正午頃には加賀温泉郷を通り過ぎ、13:25、日本縦断前半戦最後の県境を越えて福井県に入った。急ぐ旅ではあった
が、県境にある吉崎御坊・願慶寺(左)に参拝した。五百年以上前に、蓮如が延暦寺宗徒に追われて越前に移り、北陸布教の拠点としたのがこの地である。その後、一向一揆の拠点としていったん攻め滅ぼされたり、再興後は真宗本願寺派と大谷派の二つに分かれたり、数奇な歴史をたどったお寺である。さらに寄り道ついでに10分ずつだが越前松島と雄島、東尋坊に立ち寄った。ここはさすがに北陸の旅で必ず立ち寄る場所だけあって荒々しい黒い岩と緑の松、白い波が美しい調和美を形成していた。久々にお決まりの記念撮影が出来た(右・永久保存版)。
北陸屈指の景勝地「東尋坊」、もっとのんびりしたいところだが、今夜8:30迄には中間点「敦賀駅」にたどり着かなければならない。ともかく先を急いだ。天気は久しぶりに荒れ模様となった。雨こそ降らないが、強い風が波を起こし、黒い岩にたたきつけて、真っ白な花を咲かせる。荒々しくも美しい風景が道路沿いに続き、とても印象的だった。こんなコースを1時間半も楽しみながら疾走すると、自然が作った大きく美しい門「呼鳥門」に着いた。この時、既に6:05pm、鳥たちももう休んでいる。写真を一枚だけ撮って、通過。越前岬:6:10pm通過。この後、小さいトンネルの続く越前海岸を矢のように走り抜け、河野村へ入った。ここから出来たばかりの河野村有料道路(通行料20円)に
入った。10分ちょっとで終わってしまう短い有料道路だが、全く車ともすれちがわず、さらに海の上を橋のように渡っていくところもあり、暗くなった空や荒い波も手伝ってとても素晴らしい気分だった。しかしこの数年後、この有料道路内のトンネルで落石事故があり、何人かが亡くなった事を後に知り、悲しい思いをした。右手に敦賀原発の異様に近代的な光が見え、そして前方に2週間前に旅を始めた敦賀市の町の灯りが近づいてきた。途中焦って道を間違えたが、8:40、敦賀駅に無事到着。日本縦断・前半戦を終了した。おりしも雨が降り出してた。
敦賀という街は決して大きい街ではないが、自転車族にしてみれば、北陸路と山陰路および近畿(近江路)のジャンクションであり、さらに中部・関西地区から北海道へのフェリーの起点としてきわめて重要な拠点であった。そのため国鉄敦賀駅では降雨のせいもあるが、10人ほどのサイクリストによる情報交換(ルート・宿泊など)が盛んに行われていた。みなよく黒焼けしており、少なくとも1週間は走っているだろう強者ども
である。盆を過ぎ、今から旅立つ者はなく、半分がここで旅を終え、半分が旅を続ける様であった。
当時は自転車族の泊まるところといえば、@リッチマン:ユースホステル利用(ご飯食べ放題と風呂が魅力・情報交換もやりやすい。)、A普通の人:テントに泊まる、またはシュラフを持って駅の待合室(人民ホテルと呼んでいた)や神社の軒下などに泊まるなどがあり、おそらくホテルや旅館に泊まる者はきわめてまれであった。そんなわけで、駅員さんの目を盗んで(もしくは情けにすがって)そのままちゃっかり駅内に泊まってしまおうという者も沢山いた。
自分は、翌日の夜から夜勤2連・1日おいてまた1晩夜勤と続くため、いったん敦賀駅で自
転車をたたんだが、まだ旅を続ける周りのサイクリスト達からは、「もっと走ろうよ」、「まだやめんなよ」と随分引き留められた。事情を話してやっとわかってもらった。
下宿のおばちゃんとおばあちゃん、下宿人一同につまらない土産を買い、夜汽車で下宿へと向かった。天気はすっかり崩れ、雨が窓をたたいていた。アルバイトが終わった後、また敦賀の駅に戻ってくる気力が残っているだろうか? 少し疲れがたまっており、何となく心配している内にウトウトしてしまった。